ミラノの SACRIFICE展にグラフィック出展

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SACRIFICE 2021 - M.A.D.S. ART GALLERY

SACRIFICE 2021 - M.A.D.S. ART GALLERY
International Contemporary Art exhibition
December, 16 - 23 2021

イタリアの M.A.D.S. ART GALLERYさんがミラノで開催する SACRIFICE展に作品を出展いたします。開催期間は 2021年12月16日から23日迄となります。非常に崇高な理念のもと開催される展示会に日本から参加させていただくことを誇りに思います。この展示に訪れてくださる方々、これまで作品を見てくださった方々、全てが幸福に包まれるよう祈っています。

展示作品:

Avatar / 化身
Sep 2021 / 146 × 236 cm

私たちあらゆる生命は、この世に生を受ける前にその魂の歩む生涯を決めて来ました。全ての存在が神の化身であり、分け御霊であり、そして全ての命は平等です。本来は全知である存在ですが、私たちは魂の修練のためにこの三次元世界のルールに則って生きなければなりません。もしあなたが試練に直面したならこう思い出してください。あなたは神と等しく尊くかけがえのない存在です。

Archetypus / 元型
Jul 2020 / 175 × 140 cm

この作品では「原型への回帰と反復」というテーマに沿って、鳥の仮面を被った女性を繰り返し複製しています。これは人間の持つ熾烈な願望を表現しています。狂気を支える論理がアート作品または人類の文明には必要不可欠であり、作家にとって論理は感覚を抑える手段に過ぎないため、両者の共存が合わせ鏡のような反復を生むことになります。そこには終焉がなく、ただ入れ子構造になった世界がループしているのみです。人類の歴史や文化、戦争、紛争、そして宇宙もこのようにして構築されて来たのではないでしょうか。

Bodhisattvas of the Earth / 地涌の手
Mar 2020 / 97 x 138 cm

世界がコロナ禍に入った時、街中からあらゆる悲しい想念が流れ込んで来ました。神社からは柄杓がなくなり、スーパーの棚は空になりました。世界は新しく生まれ変わろうとしていました。アートがそのような世界で持つ役割は何か考え続け、大きな世界のうねりから受けた想念をろ過するように、無心で作品に投影し続けました。そして最後に残ったのは「祈り」でした。

展示コンセプト和訳):

人は何故、芸術作品を創ることに感動するのか。作品が自分自身の内面を静かに観察しているような印象を受けることがあるのは何故だろう。私たちは筆跡の中にエネルギーを感じ、キャンバスに敷き詰められたレリーフの間にエネルギーを感じる。作家の手とそのリズミカルな動きに神秘性を感じ、形ある素材の不透明な表面の後ろに隠されているものを伝えるためには常に自己犠牲が伴う。

犠牲。何かに、何かのために捧げる行為。現実の世界に言及可能なオブジェクトがその意味を失い、構成された形とその物質的な義務を放棄して、準親水性のオブジェクトと化す行為。本来の機能を失った物体は、不安定で見えない意味合いを持ち、見えない世界の可視的な物体となる。現実の次元と聖なる次元の狭間の微妙な繊維、人間と希望の間の豊かな絆の構築者、オブジェクトはそれ自体が犠牲となる。人間自身が犠牲者であると同時に、焼かれるべき要素でもある。

一方、自然界には犠牲の本能はなく、動物は道徳に突き動かされることもなく、倫理的なジレンマに陥ることもない。人間だけが、理想や未来の利益、微かな希望の名のもとに、自らを犠牲にすることを決断できる存在なのである。希望は犠牲の原動力なのだろうか? 犠牲とは、無力で取るに足らない存在でありながら、手に入らないものを目指す人間の叫びなのだろうか。そしてそれは、犠牲になった者と犠牲にした者を、その中に具現化する芸術家の姿なのだろうか。

今日、美的表現は人間的な活動であり、実用性の規則に従わず、市場の厳格な法則にも無視され、実用性の如何なるものからも除外されている。芸術はその性質上、具体的な任務を果たさず、目に見えないもの、「異次元」から来るものの担い手となっている。具体的な要素を持たず、芸術的創造の言語によってのみ表現されるアートは、私たちが見ることのできないものを表現する唯一の方法である。アートを相反する世界を統合する準親和性のあるオブジェクトにまで高めることは可能なのだろうか。

フランス社会学の理論によれば、生け贄の行為は、個人が聖なる領域にアクセスするための現実の道具に他ならない。人間は超自然的な世界とコミュニケーションを取る特権を持っており、焼かれたものは犠牲者を異なる状態に移行させ、現実の世界から遠ざけ、神的な存在に近づけるものである。一方で、生け贄は人間の世界と目に見えない世界との間の自然な分離を制止する。人間は、橋のない空間、或いは時間を克服しようと、無意識的なジェスチャーや公式で作られた大規模な儀式を通し、「他」の世界とコミュニケーションを取ろうとする。運命の頂点としての芸術家、全人類の聖なるテーブルの上で焼き尽くされるべき行動と要素としての芸術。現代世界の司祭であり、現実の世界と不可視的な世界との狭間の繊細な道を構築する者である芸術家は、人類のために、その先天的な疑問や先祖代々の疑念を犠牲にした著者としての立場にある。芸術の血は、祭壇の横顔から豊かに降り注ぐ。それは全人類のための犠牲であり、贈り物である。

現代では、生贄の行為を神々に捧げられた行事と考えることは時代錯誤である。しかし、神々はまだ存在している。彼らは私たちの世界を歩き、呼吸し、停留している。神々はその名前と姿を失い、その解釈は新しいものへと変化している。それは、私たちの生き方や、速くてあまり瞑想的ではない同時代性に特有の理想や願望である。理想の中の神々の化身、目に見えないものの領域に人間の疑問を含めること、そして世界で未踏のものを解剖したいという不変の欲求は、人間である芸術家に、自分自身の神的な概念に到達するために、繊細な創造のプロセスを通して自らの存在を犠牲とし、物理的な法則を超えて神的なものに流れ込む存在の状態へと向かわせる。

SACRIFICE展は、人間の発明品としての犠牲について考える行為であり、絵画、彫刻、デジタルの媒体を用いて、人間に向けられた死の衝動を生み出すもの、決定するものを明るみに出すための親密な研究の機会を提供する。SACRIFICE展は、上記のような疑問に対する答えを導き出し、原動力としての希望の価値を検証する機会であり、私たち一人一人の魂に宿る、決して衰えることのない旺盛な願望と理想を明らかにするためのインプットでもある。疑念、生来の謎、現代社会特有の特異性、身体の皮下に宿る脆さなど、全てが芸術作品の中にあり、私たちの中に宿る暗い深淵を解読するための奉納物である。アートを私たちの犠牲となる要素に似せて形作り、その目に見える特徴を消し、表面的な形式的要素を取り除き、物質世界と観念世界の間にある繊細で幽玄な橋を築こう。そしてアートを私たちの準親水性の対象とし、人類の希望と神秘的な願望のために捧げようではないか。

Translated by Masaki Hirokawa

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