普賢菩薩像模写

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Obelisk | Illustration / 普賢菩薩

普賢菩薩像の模写。原画は仏画家の小峰和子氏によるもの。作業の終わりに無駄と気付くまで色々なことを考えた。

一つが、ゲームでレベリングの作業をしている時と脳波の状態としてとても近いものがあるのではと感じたこと。単純作業という意味では、子供の頃に砂浜の砂粒を全て数えなければならないという理不尽な夢を見たのを憶えているが、あれは作業の理由が不明=義務であるのと、作業に終わりや形が見えないから長く感じられ苦しかったのだと思う。また、寝る前に無駄毛の処理をしていたら気付くと2時間経っているということもままあって、これもそこそこもどかしい。

もう一つが、陰陽和合とは何か。上下/左右対称な2対の放物線を収束に向かわせようとする働き、或いは一瞬にして±0と認識させ得る一見複雑な、しかし理にかなった様相を指す。これは長く抱えているテーマで、例えば自分に置き換えると昔にできたことと今にしかできないことを両立できたらと常々考えている。

24歳より以前は、自分が居て心地よい世界観や感じている空気、感動した時に有り余った物を外に向けて表現したいという欲求が強く、できなければ数年先まで闇、或いは人生を棒に振ってしまうといった風な思い込みが強かった。仮に “I want to show you everything I see, the way I’m feeling” という曲の一節に感動したなら、言葉では全然伝わらないため、グラフィックやインタラクティブムービーにデフォルメし、そこに自身を投影した物語から構築しなければならなかった。現在が外的指向や無指向であるのに対し内的指向である。

24歳より以後は、タイトルとイメージの最終形態が具体的に浮かんでから、頭より体の優先度を上げて作業に着手するようになった。しかし無から生まれる有というのは幻想で、宇宙空間はその媒質に陽電子と陰電子からなる結合電子対(空間子)から構成されており、媒質の対比はほぼ等しく保たれているため、必ず自身のどこか、または他の存在を犠牲にしているはずである。

昔も今も一長一短で、現在に不満はなく寧ろ感謝の気持ちさえ湧いてくるが、時折若い時分にしかできないことを棒に振ってはいまいかと疑問も湧いてくる。今はといえば、季節の匂いに一喜一憂することもなければ、感極まって泣くこともないし、早足で歩き続けても疲れることもなければ、そのとき耳を塞ぎ下を向いていても人にぶつかることもない。また、遠い過去を懐かしく振り返ることもなければ、遥か先の未来を漠然と不安に思うこともない。

ただ他の理想主義的な人間と同様、何事も朧げな記憶にある幻に勝るものはないと信じ、五体に取り憑かれたようにその再構築を夢見ている。

そういえば、以前にもここにこんな風なことを書いた気がする。

『普賢菩薩とは?』

大乗仏教の菩薩で、梵名は「サマンタバドラ」。漢訳して「普賢」や「遍吉」とする。「悟りへの行」を象徴した菩薩である。

『華厳経』では、文殊菩薩と共に活躍する。『法華経』「普賢菩薩勘発品」や、像容を詳しく説く『観普賢経』をもとにして作られた仏像も多い。

「大法論」第75巻(平成二十年)第7号 106ページ目より引用

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